介護士としての体験談-A美さんの入れ歯

これは私が介護士として働き始めたばかりの頃のお話です。

 

私が勤めていたBという有料老人ホームは、20床で満床の非常に小さくてアットホームな雰囲気の施設でした。入居されている方も優しい方が多かったのですが、その中にA美さんという90歳の女性がおられたのです。

 

A美さんは「ツワモノ」として有名でした。何が「ツワモノ」かと言いますと、入れ歯を外さない――いわゆる「義歯外し拒否」の「ツワモノ」です。

 

Bホームに入居されて2年間、誰が頼んでも一度も入れ歯を外したことがないそうです。あまりに不衛生だったため、ご家族の方が無理やり口に手をいれて外させたこともあったと聞かされました。

 

ところが、勤め始めて1カ月後の大晦日のことです。私は就寝介助のためにA美さんと二人で食堂から居室へ戻りました。A美さんは義歯外し拒否と認知症がある以外はおっとりして優しい方です。

 

「奥さん今年も良くしてくれてありがとう。何かお礼しないとけませんねえ」

これはA美さんの口癖です。とはいえ、入居されている方から個人的にお礼を頂く訳にはいきません。

 

「じゃあ、入れ歯外して下さい!」

冗談半分で即答すると、信じられないことが起きました。

「はい、どうぞ」

 

「看取りのときまで入れ歯を外さないだろう」と職員全員から思われていたA美さんが、入れ歯を外してくれたのです。外した入れ歯は蝋細工みたいに黄色く変色していました。

 

この話の趣旨は「私がいいケアをしたから、A美さんが入れ歯を外してくれた!」――残念ながらそうではありません。この話の大事な部分は「お礼がしたい」と言われたときにタイミング良く「入れ歯を外して!」とお願いできたことなのです。

 

いいケアと同じくらい大事なのは「タイミング良く機会を捉えること」ではないか、と私が考えるようになったきっかけがこの出来事でした。